50時間の船旅を終え、いよいよ天津新港に着岸、上陸です。
タラップを降り、ついに大陸の土を踏んだ!と高揚感があります。
その後入国審査。
1995年当時。中国の入国審査官は無愛想でしたが、今思うと、今でもどこの国でも一緒かもしれませんね。
ビザのページを見てハンコを押してくれました。
そして、税関は素通りでした。
X線の検査機もあったのですが、動いてませんでした。
完全ノーチェックでした。
なお、港には両替所がなかったので5000円だけ船内で両替しておきました。
レートはちょっと悪い程度でした。
1995年当時はUSドルへの固定レートで、1万円で800元くらいでした。
1元=12円くらいでした。
なお、現在の紙幣は全部毛沢東ですが、当時は少数民族とかの絵でした
日本円の紙幣と違い、ボロボロのお札もけっこう混じっています。
さて、ターミナルを出ると、小汚い格好の中国人がたくさんいます。
当時はまだ人民服を着ている人もいました。
当然ながら中国語があふれています。
いざ北京へ
我々はその日のうちに北京まで移動することにしました。
北京3回目のベテランバックパッカーさんのお話を聞くと、港で北京行のマイクロバスが待っているのでそれに乗るのがよいとのこと。
なので、同室の10人くらいの旅行者みんなでバスで移動することにしました。
2時間ほどかけ、いよいよ北京へ向かいました。
10人ほどの日本人旅行者が一緒です。
50時間の移動をした後では、2時間くらい誤差みたいなものです。
北京到着と中国初の食事
そして2時間後、北京の中心地である、前門付近に行きました。
1995年の北京の町は、今とは全然違いもっと汚く雑然とした感じでした。
宿はまだ決まっていなかったのですが、すでに19時くらい。
まずは食事をしようということで、食堂に入りました。
その辺の地元の食堂です。
北京3回目のバックパッカーさんは、多少中国語が喋れるので料理の注文などもお願いしました。
普通の炒め物とか麺とかスープとかを適当に頼みました。
正直言って、初めての北京の料理はあまりおいしくはありませんでした。
でも、値段は安かったですね。
1人15元(当時だと180円)程度で十分おなか一杯になりました。
ビールは大瓶1本2元(24円)と格安です。
物価の安さにびっくりしました。
さすがそのときは宿を探す前だったし、寒かったので1本だけにしておきました。
ただ、その後、中国にいる間は事あるごとにビールを飲みました。
中国初の宿探し
食事を終えた後、宿探しです。
当時の中国は、外国人が泊まれる宿と中国人専用宿が分かれていました。
我々は当然外国人用の宿を探すのですが、みんなバックパッカーなのでなるべく安い宿を探すことにしました。
とはいえ、すでに日は落ちている状態なので、なるべく早く探す必要があります。
基本的にはドミトリーで探しました。
ドミトリーとは、部屋を借りるのではなくベッドを借りる形式です。
一部屋に知らない人が数人一緒に泊まる形です。
ユースホステルみたいな感じです。
ここでも北京3回目のバックパッカーさんにご活躍いただきました。
以前泊まった宿を紹介してもらい、金額なども聞いてもらいました。
天壇公園という世界遺産にも登録されている史跡公園の近くにある宿にドミトリーがありました。
料金は20元くらいでした。
ドミトリーはシングルの部屋にくらべるとかなり安いです。
シングルだと3倍くらいはしたはずです。
ただ、ドミトリーとはいえ、もともと10人くらいで来てたのでみんな部屋は一緒でした。
なお、中国の宿ではデポジットの制度がありました。
鍵を借りるときに「保証金」を渡すことです。
実際の中国のドミトリーの場合は鍵ではなく、カードをもらって各階の係員に見せると開けてくれる形でした。
ドミではトイレ、シャワーも共同です。
シャワーを浴びようとシャワー室に行きました。
お湯が出るとのことだったのですが、勢いは弱くてちょろちょろという感じです。
私の後に入った人の中には、お湯がなくなって水になってしまった人もいました。
2月の北京で水シャワーとは過酷です。
シャワーを浴びるタイミングも重要ですね。
まあ、安いのでしょうがないです。
バックパッカーにとっては宿の設備にはどうでもよくて、安いことが重要と考えるものです。
当時の私はひたすら安く上げることを考えていましたね。
1日の予算は1000円以内と考えていました。
今思うと金を出すことによって得られることも多かったかなとも思いますが、若い頃にそういう経験をしておくことも悪くないと思います。